広島地方裁判所 昭和59年(ワ)147号 判決 1987年8月28日
原告
甲野正夫
右訴訟代理人弁護士
久行敏夫
同
山下哲夫
右訴訟復代理人弁護士
土沢公治
被告
東京海上火災保険株式会社
右代表者代表取締役
渡辺文夫
右訴訟代理人弁護士
田中登
主文
被告は、原告に対し、金九〇八万円及び内金八五八万円に対する昭和五七年四月一日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。
原告のその余の請求を棄却する。
訴訟費用は、これを二分し、その一を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。
事実
第一 当事者双方の求めた裁判
一 原告
1 被告は、原告に対し金一八〇〇万円及び内金一七〇〇万円に対する昭和五五年四月一三日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は、被告の負担とする。
3 仮執行の宣言
二 被告
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は、原告の負担とする。
第二 当事者双方の主張
一 請求原因
1 乙山剛は、昭和五五年三月一三日午前一一時三〇分頃、その運転する乗用自動車(広島五五ワ〇〇〇〇)の助手席に、甲野一郎を同乗させ、広島市西区草津港二丁目一七―八付近路上で同車を発進進行させたが、その運転を誤り、同車を船舶係留用のピットに衝突させた(以下、これを「本件事故」という)。右事故により同乗していた一郎は、折から前かがみの状態であつたことから、その頭蓋の所謂脳天部分を同車のダッシュボードに衝突させ、鞭打ち症の傷害を被つた。
一郎は、事故後に鉄道病院において診察を受け、同月一七日牛田病院で診察を受けた後、翌一八日から同病院に入院して治療を受けていたが、同年四月一二日同病院屋上から飛降り自殺を試み、頭蓋底骨折により死亡した。
2 一郎が、右のように飛降り自殺するに至つたのは、本件事故により被つた前記の鞭打ち症を苦にし、そのため抑うつ症に陥つたがためであつて、その経緯は次のとおりであるところ、これから明らかなとおり、一郎は本件事故により前記の傷害を被つたがために死亡するに至つたものである。
即ち、
(一) 一郎は、高校卒業後日本国有鉄道に勤務していたものであるが、明朗快活、かつ心身共に健康なスポーツ青年であり、入社後事故前月まで無欠勤であつた。
(二) 一郎の受けた前記の鞭打ち症は、本件事故の際に頭部から頸部にかけて頸椎を圧迫するような衝撃を受けたために発症したものであるところ、事故後、日を逐つてその症状が悪化し、頭痛、項部痛の持続するほか、両手足にしびれが生じ、この症状は軽快しないのみか、かえつて悪化の経過を辿つていた。そのため、一郎は、健康を回復し得るかについて極度の不安を抱くと共に、その前途を悲観して、不眠と食欲不振の症状を呈する抑うつ症(うつ状態)に陥り、その結果自殺を企てるに至つた。
(三) およそ交通事故の被害者が、傷害を被つたことにより生じた症状を苦にし前途を悲観して自殺することは、通常有り得べきところであつて、これは予測不可能な極めて稀な事柄ではないというべきであるから、交通事故により傷害を被つたことに起因して抑うつ状態に陥つたがために自殺したものであるときには、仮に、自殺に至る間に被害者本人の資質が影響しているところがあるとしても、右の交通事故とその被害者の自殺との間には因果関係あるものとみるべきである。
一郎の被つた鞭打ち症の程度は、中等度以上のものであり、前記のとおりそれに起因して各種の症状が発症し、かつそれが増悪したために、一郎はそれについて極度の不安を抱いていたものであるから、同人は、まさに、本件事故により被つた傷害を苦にして抑うつ症に陥り自殺するに至つたものであることが明らかであつて、同人の死亡は本件事故に因るものというべきである。
3 被告は、前記自動車の保有者である乙山が、同車につき自動車損害賠償保障法一一条所定の自動車損害賠償責任保険契約を締結している保険者であるから、右自動車の運行中に生じた本件事故により一郎が傷害を被つたことのため死亡したことに因つて生じた損害を、直接支払うべき義務がある。
4 本訴において、原告が請求する損害は次のとおりである。
(一) 一郎の逸失利益
一郎は、本件事故当時二二歳一一か月余り(昭和三三年四月二二日生まれ)の健康な男子で、日本国有鉄道広島駅構内係として勤務し、年間一八八万八五二七円の収入を得ていたものであるから、少なくとも六七歳までの四五年間は、右と同額の収入を得ることができたものであるところ、同人は、本件事故により被つた傷害のため死亡したことにより、得べかりしであつた右の収入を失い、これにより同額の損害を被つたものであつて、右の収入を得るに必要な生活費を収入額の五割として、年五分の割合による中間利息を控除して合算すると、二一九三万六一八五円となる。
そして、原告は、一郎の父であり、かつ唯一の相続人であるところ、原告は、右の損害賠償請求権を相続により承継した。
(二) 慰謝料
原告は、本件事故により将来ある長男を失つたものであつて、このために著しい精神的苦痛を被つたものであるところ、これを慰謝するには、一四〇〇万円をもつて相当とする。
(三) 弁護士費用
原告は、被告に対し、直接自動車損害賠償保障法に定める前記の損害にかかる保険金の支払いを請求し得べきところ、その支払いを拒絶され、更に異議の申立てをしたが、これも却下されたものであつて、その支払いを受けるには、本訴を提起するほかないものであつたことから、本訴の提起及び追行を原告訴訟代理人弁護士に委任し、その費用として一〇〇万円を支払う旨を約し、これにより右同額の損害を被つた。
5 よつて、原告は、被告に対し、前記4の(一)の損害及び(二)の慰謝料合計三五九三万六一八五円の内金一七〇〇万円と同(三)の損害一〇〇万円の合計一八〇〇万円、及び弁護士費用にかかる損害を除く一七〇〇万円に対する本件事故の後の昭和五五年四月一三日から支払い済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
二 請求原因に対する認否及び主張
1 請求原因1記載の事実は、事故当時の一郎の姿勢、衝撃を受けた部位、具体的な受傷の態様の点を除き、これを認める。本件事故の態様は、乙山運転の車が発進直後に僅か一メートル前方にあつたピットに衝突したものであつて、その衝突により一郎が受けた衝撃の程度は微弱であつた。
2 同2冒頭記載の事実は争う。
(一) 同(一)記載の事実は知らない。
(二) 同(二)記載の事実は争う。
一郎は、事故後の三月一五日に広島鉄道病院で、更に一七日牛田病院で診断を受けたが、その際の症状は項部痛のみであり、しびれや麻痺等の症状はみられないごく軽度なものであつて、通常三週間程度の保存的療法により治癒する筈のものであつた。一郎には同年四月四日頃には左手足のしびれ感が現れ、その頃から同人は不眠を訴えていたことが窺われるが、それらは器質的な根拠のない単なる不定愁訴であり、さして重視すべき症状ではなかつた。
このように一郎の被つた鞭打ち症の程度は軽度であり、長期の治療を必要とする症状でもなく、後遺障害の生ずる危険も殆ど考えられないものであり、また死亡当時は一月弱の治療期間が経過していたに過ぎないものであるから、同人が鞭うち症の症状を苦にして抑うつ症に陥つたとの事実関係は到底肯定し難い。
(三) 同(三)記載の主張は争う。
事故の被害者が重傷を負い、そのため長期療養を已むなくされ、或いは重度の後遺障害のあるものであつて、被害者においてそれらを苦にして自殺するのも無理からぬものとみられるときには、被害者が死を選択することを予見し得る程度の重大な被害を被らしめたものとみることができるから、その間に何程かの因果関係を認め得るものであり、ひいては、加害者において自殺の結果について責任を負うものとする余地なしとはしないものである。しかし、被害者の被つた傷害が右の如き重篤なものではない場合にも、なおその死の結果について責任あるものとするときは、加害行為である傷害の程度に比して、著しく均衡を失する過大な責任を加害者に負わしめる結果となることは明らかであつて、それは公平の原則に反するものというべきであるから、かかる場合には、なお加害者に責任あるものとすることはできない。
仮に一郎がその被つた傷害の故に抑うつ状態に陥つたものであり、或いはその結果自殺したものであつたとしても、前記のような軽度の傷害、或いは短期の療養の許では、一郎において傷害を苦にして自殺を図るのも無理からぬものとは到底みられないものであつて、同人の自殺は、本件事故により傷害を負つたことによるものではなく、その特異な資質による発作的な所為といわざるを得ず、本件事故による傷害と同人の自殺との間に相当因果関係あるものではない。
3 同3記載の事実のうち、被告が、乙山が保有する同記載の自動車にかかる自動車損害賠償責任保険契約の保険者であり、自動車損害賠償保障法一六条に基づき、加害者の負うべき損害賠償額を直接被害者に支払うべき義務あることは認めるが、前記2記載のとおり、一郎の死亡は本件事故によるものということはできないから、その死亡による損害については、その支払い義務はない。
4(一) 請求原因4の(一)記載の事実のうち、原告が、一郎の父で、その唯一の相続人であることは認める。その余の事実は知らない。
(二) 同(二)記載の事実は争う。
(三) 同(三)記載の事実は争う。
第三 証拠関係<省略>
理由
一請求原因1記載の日時(昭和五五年三月一三日午前一一時三〇分頃)、同記載の場所で、乙山剛の運転する同記載の乗用自動車が船舶係留用のピットに衝突する事故が発生したこと(以下これを「本件事故」という)、このため同自動車の助手席に同乗していた甲野一郎が、鞭打ち症の傷害を被つたことは、その衝突の態様、衝突時の一郎の姿勢ないし体位、受傷の具体的な状況、その鞭打ち症の程度を除いて、当事者間に争いがない。
次に、一郎が右の鞭打ち症の治療のため入院中であつた同年四月一二日に自殺したことも当事者間に争いがない。
そして、<証拠>によると、乙山は、前記自動車を駐車させた際には、その左前方約一メートル余りの位置に係留用ピットがあることに気付いていたが、前記自動車を発車させる際には、それを失念し、かつ右のピットは運転席からは容易には見えない位置にあつたため、右ピットの存在に注意を払うことなく、発車加速したため、自車左前部を右ピットに衝突させ、本件事故を惹起したものであることが明らかである。
二被告が乙山の保有する前記自動車につき自動車損害賠償保障法一一条所定の自動車損害賠償責任保険契約を締結している保険者(同条にいう保険会社)であることは争いがなく、かつ、前記自動車の運行中に生じた本件事故によつて一郎が前記の傷害を被つたことにより生じた損害につき、保有者である乙山がその賠償責任を負うべきものであるときには、被告において、直接損害賠償額を支払うべき義務あることは、その自認するところである。
三一郎は前記一のとおり自殺したものであるが、原告は、一郎は本件事故により被つた傷害を苦にして抑うつ症に陥り、それに因り自殺したものであると主張するので、以下、これについて検討する。
1 <証拠>を総合すると、次の事実が認められる。
(一) 一郎は、事故当日は、勤め先(日本国有鉄道)の同僚である乙山の運転する前記自動車を利用して魚釣りに出かけていたもので、本件事故は、前記自動車に同乗して昼食をとりに出かけようとして、発車した際に生じたものであるが、一郎は、事故時の衝突の衝撃によりその前額部を同車のダッシュボードに強く打ち付けた(なお、同部位は事故直後から発赤していた)。
一郎は右のような打撲を受けたものの、運転者が同僚であつたことから事故を内々にし、事故当日はそのまま帰宅した。ところが、一郎は受傷時より引き続いて右の打撲に起因する頭痛などがあるため、翌々日の一五日に、広島鉄道病院において診察を受けた(その診断名は頸部捻挫であつた)。
(二) 一郎は、その後も、頭痛や項部痛が強いところから、同月一七日に牛田病院で診察を受け、翌一八日から同病院に入院した。同病院においては、頭痛、項部痛の症状のあることから、鎮痛剤や、循環不全ないし脳代謝機能の低下に対する賦活作用を目的とした薬剤の投与を受け、併せて頸椎捻挫に対する理学的療法を受けた(初診時に頸椎部のエックス線撮影がなされたが、その結果では異常はみられなかつた。また、三月二四日に脳波検査が実施されたが、これによつても異常は認められなかつた)。
(三) 一郎は、前記の頭痛などの症状に加えて、四月四日頃には左手足に鞭打ち症に起因するしびれの症状が現れ、六日頃からは右手にも同様の症状が生じた。そのため同病院においては、右のしびれの症状の器質的な有無その確定を目的として指尖容積脈波検査を施行したが、確定的な診断に至らなかつた。更に、一〇日頃からは背部にもしびれ感がみられるようになり、同月一〇日にはしびれの症状の緩解を目的として星状神経ブロック術を施行したが、さほどには、右の症状は減退しなかつた。
(四) 一郎は、右のしびれの症状が現れると前後してより、睡眠障害が顕著となり(同病院の処方により睡眠薬を服用した)、その食欲も減退した。そして、一郎は、同病院医師に対し回診の都度、自己の症状は増悪するものであつて、治癒しないのではないかとの不安を露わにして、頻繁に病状について質問し、同医師から右のしびれなどの症状は鞭打ち症によるものであつて、治療により快癒するものであるとの説明を受けながらも、容易にはこれに納得せず、更に看護婦に対しても同様に自己の前記症状は治癒しないのではないかとの趣旨の質問を重ね、一郎においては症状の好転しないことに対する焦慮と病状の増悪を懸念して極度の不安を抱く言動を示すようになつた。特に、一郎が肉親に対し不安を訴える電話をしたことから、同月八日には実妹の丙田優子が見舞いに訪れたが、その際には、一郎の抱く前示の不安感ないし焦燥感が異様なものであり、悲哀感も窺われたことから、同女においては一郎の心身の状態を案じ、肉親の居る郷里の病院に転院することを示唆する程に不安定な精神状態にあつた。
(五) このような状態であつた同月一二日早朝に、一郎は手許にあつた薬袋の表面に肉親宛の遺書を認めたうえ、同病院屋上から飛降り自殺をした。右の遺書には、「体全体がしびれて、背中がいたくてしかたがない」旨の記載が残されていた(なお、乙山に対する忿懣或は怨みを示すものと解される記載もあつた)。
2 右1認定の事実に<証拠>を併せ検討すると、原告は本件事故により被つた前記の鞭打ち症に起因する頭痛などの症状が容易には快方に向かわないのみか、新たに手足などにしびれの症状が生じ、ついでその発症の部位が広がる状態となつたことから、症状が好転しないことに対する焦燥感を深め、更には、自己の被つた鞭うち症は、治療にも拘わらず、治癒しないのではないかとの極度の不安を抱き、それを主たる原因として抑うつ症に陥り、右の抑うつ症状が昂じて自殺するに至つたものと認められるところである。なお、一郎が前記の如き抑うつ症に陥つたのは、他方では本件事故は同僚である乙山が惹起したものであるため、事故に遭遇したに対する不満や症状に関する苦痛を公然とは表明し難いことから生ずる心理的な抑圧も加わつたものではないかと推認されるのである。
3 ところで、右の認定に関し、被告は、一郎が鞭打ち症を苦にして抑うつ状態に陥つたとは考え難いとし、更に、本件事故による受傷と同人の自殺との間には因果関係あるものではないと主張する。
(一) まず、被告は、一郎の被つた鞭打ち症は軽症であり、死亡前においてその主治医も一郎が抑うつ状態にあると診ていなかつたと指摘する。そして、一郎の治療に当たつた証人島筒志郎も、同趣旨を証言し、一郎の鞭打ち症の症状は当時悪化していたものでも、また特異な経過を辿つていたものでもなく、更に死亡前、一郎は多少は不安定な精神状態にあつたとしても、それは患者一般が抱く程度のもの以上ではなく、神経症状等はみられなかつたと証言するものである。
しかし、一郎の受傷の態様は前記のとおりであつて、その受けたであろう衝撃の程度は必ずしも軽いものとはいい難いところ、前記認定に供した各証拠によつて、同病院医師が施した治療の具体的な経過、その投薬の実情を検討すると、その症状がごく軽微であつたとは解し難い(なお、一郎に発症したしびれの症状は、同人が負つた鞭打ち症に起因するものであることは否定し難いもので、このことは同医師も認めるところである)。他方、<証拠>によつて検討すると、疾病を苦として抑うつ状態に陥ることは通常有り得るところであり、しかもその疾病が客観的にも重傷である場合に限られるものではないことが認められるものであつて(一郎の傷害の程度は客観的には重篤であつたとはみられないものの、一郎が鞭打ち症に起因する諸症状に対して抱いた不安感等は、予想外に深刻であり、同人はそれを重大視していたものであることは、前記1の認定に供した各証拠により容易に認め得るものである)、前記1認定のとおり一郎には不安感、焦燥感、睡眠障害、食欲不振などの抑うつ症に特徴的な症状がみられたものであることに<証拠>からすると、前記証人島筒志郎の証言にも拘らず、一郎が自殺を企てた当時には抑うつ症にあつたものとの事実は、これをにわかに否定し難い(なお、前記甲号証の記載中や証人山口昇、同堀田吉稔の証言中には、同病院の島筒医師は一郎に抗うつ剤ないしは精神安定剤として用いられる薬剤を投与し、抑うつ症に適応する治療方法を試みていると指摘して、同医師も一郎が抑うつ状態にあるものと診ていた筈であるとする記載ないし証言があるが、証人島筒志郎の証言によつて検討すると、右の投薬等の事実から、同医師も一郎に抑うつ症状があると診断していたとは、直ちには断定し難いところではある)。
(二) そして、一郎が抑うつ症に陥つたについて、それが前記鞭打ち症による諸症状の発症とは関わりのない他の別個の原因によるものと窺い得る証拠はないところであり、更に、<証拠>によると、抑うつ症に陥つた患者は自殺志向が高いものであり、一般的な臨床例からすると、自殺頻度は発病初期か、回復期に多いとされているところ、一郎において他の事由で自殺に及んだものとの事情も、これを窺わせる証拠のないものであつて、これらの事情と前記1認定の事実からすると、一郎の被つた鞭打ち症の程度などに関する被告指摘の事実は、前記2の認定を妨げ得るものとはなし難い。
4 前示のとおり、一郎は本件事故により被つた鞭打ち症による諸症状の発症、その増悪を苦にして抑うつ症に陥り、そのために自殺するに至つたものと認められるところ、一般にも、事故により傷害を負い、それにより生じた諸症状に対する苦痛或いはその症状の進行ないしはその治癒の見込みに対する不安などから抑うつ症に陥り、そのために自殺を試みることも、必ずしも稀な事態とは解し難いことからすると、本件事故による一郎の受傷と同人の自殺との間には事実上の因果関係あるものというべきである。
しかし、他方では、本件事故により一郎が受けた程度の傷害を被つた場合において、通常人であれば、当然に前示のような抑うつ症に陥るものとは解し難いものであつて、右の抑うつ症に陥るか否かは、その素質ないし資質、その生活環境、年齢、境遇等に大きく左右されるものであると解されるところ、これらの素質等は優れて被害者たる一郎に固有の事情に属するものであることを考慮すると、一郎が自殺したことにより生じた損害のすべてを、一律に本件事故により生じた損害として、加害者に負担させることは、公平の理念に反するものというべく、一郎が抑うつ症に陥り、自殺するに至つたについて本件事故による傷害の寄与した限度においてのみ、加害者にその責任あるものというべきである。そして、前記認定説示した事実からすると、本件事故の寄与の割合は、これを三〇パーセントとみるを相当とする。
四そこで、本訴において、原告が請求する損害について判断する。
1 一郎の逸失利益
<証拠>によると、一郎は、昭和三三年四月二二日生まれ、本件事故当時二二歳一一か月余の健康な男子であつて、事故当時は日本国有鉄道東広島駅に勤務し、事故前の昭和五四年中においては年額一八八万八五二七円の給与収入を得ていたことが認められるものであるから、同人は、本件事故により死亡することがなければ、少なくとも六七歳までの間の四五年間は稼働し得て、この間に右と同額の収入を得ることができたものと推認し得べきところ、同人は、本件事故により被つた傷害のために死亡したことにより、前記稼働可能期間に亘り毎年得べかりしであつた右と同額の収入を失い、これにより同額の損害を被つたものというべく、右の収入を得るに必要な生活費は、右の収入額の五割とみるを相当とするから、同額を控除して、原告主張の基準時(一郎死亡の日の翌日)に一時にその支払いを求めるものとして、ホフマン式計算方法により年五分の割合による中間利息を控除して合算すると(但し、円未満を切り捨てる)、二一九三万五九〇二円となる。
ところで、前記三の4において説示したとおり、本件においては、保有者たる乙山は、右の損害額のうち三〇パーセントの限度で、その責任あるものというべきであるから、原告において請求し得べき損害額は、六五八万円となる(但し、一万円未満を切り捨てる)。
そして、原告が一郎の唯一の相続人であることは争いがないから、原告は、右の損害賠償債権を相続により承継したものというべきである。
2 慰謝料
原告が一郎の実父であることは争いがなく、<証拠>によると、一郎はその唯一の男子であつたことが明らかであるところ、一郎が本件事故に遭遇することとなつた事情、同人が自殺するに至る前記認定の経緯、一郎が本件事故により傷害を被つたために死亡したについては、加害者たる乙山は前記三の4の説示した限度においてその責任を負うべきものであること、その他本件における一切の事情を考慮すると、一郎の死亡により原告が被つた精神的苦痛を慰謝するには、金二〇〇万円をもつて相当とする。
3 弁護士費用
原告は、保有者たる乙山に対し前記額の損害の賠償を請求し得るもので、従つて、右の損害賠償額につき被告に対し自動車損害賠償保障法一六条二項に基づき直接その支払いを求め得べきものであるところ、<証拠>を総合すると、原告において、被告から右の損害額の支払いを得るには、本訴を提起するのほかなく、そのために原告は原告訴訟代理人に本訴の提起とその追行を委任したものであることが明らかである。そして、本件事案の内容、本訴における相互の主張、立証の実情と支払いを求め得べき損害額等からすると、原告が右の訴訟委任により支払うべきうち、五〇万円の限度で、本件事故と相当因果関係ある弁護士費用としての損害というべきである。
五そうすると、原告は、自動車損害賠償保障法一六条一項に基づき保険者たる被告に対し、直接、前記四の1の損害及び2の慰謝料及び3の弁護士費用にかかる損害の合計九〇八万円と、うち弁護士費用にかかる損害を除く八五八万円に対する遅滞の日から支払い済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払いを求め得るものというべきである。ところで、同条同項に基づく保険会社の被害者に対する損害賠償額支払い債務は、期限の定めのない債務として発生し、履行の請求を受けた時に初めて遅滞に陥るものと解すべきであるところ、<証拠>を総合すると、原告は、昭和五七年三月中には、その支払いを請求したものと推認し得るところであるから、遅くとも同年四月一日には、被告において遅滞に陥つたものと認めることができる。
よつて、原告の本訴請求は、前示の九〇八万円とうち八五八万円に対する遅滞の日の昭和五七年四月一日から支払い済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度において、その理由があるから、これを認容し、その余は失当として棄却することとし、訴訟費用につき民事訴訟法八九条、九二条を適用し、なお、仮執行の宣言は相当でないから、これを付さないこととし、主文のとおり判決する。
(裁判官北村恬夫)